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更新日:2015.11.04

アゴラ劇場、青年団、徳間書店の特別共同企画となる本連載。第1回のゲストには霊長類学者で京都大学総長の山極寿一氏が登場。「ボスゴリラは父親の役割を演じる」という事実に演劇人として平田オリザは何を思うのか? あらゆる領域の学問から演劇を考察する対談企画。約2時間に及ぶクロストークをほぼノーカットで収録。3回に分け、山極氏と平田氏の問答を毎週掲載する!

ゴリラは、相手の気持ちを先回りして行動する

平田 今回の企画は、人類の進化を追って話を進めながら、演劇や演技というものの本質をみつめていこうという連続対談です。初回は、霊長類学の見地から山極さんにお話いただき、続いて文化人類学や社会学、教育学といった分野の方々とも対談を行ないます。まだ決まっていない部分もあるのですが、最後はロボット工学の石黒浩先生に決まっているという(笑)。

山極 面白そうですね。

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山極寿一(やまぎわ・じゅいち)

1952年、東京生まれ。京都大学総長。京都大学理学部、同大学院理学研究科博士課程修了。理学博士。公益財団法人日本モンキーセンター・リサーチフェロー、京都大学霊長類研究所助手、同大学院理学研究科教授を経て、2014年10月に京都大学総長に就任。1978年よりアフリカ各地でゴリラの野外研究に携わり、類人猿の行動や生態をもとに初期人類の生活を復元し、人類に特有な社会特徴の由来を探っている。主な著書に『家族進化論』(東京大学出版会)、『オトコの進化論』(ちくま新書)、『「サル化」する人間社会』(集英社インターナショナル)などがある。

平田 できるだけ、ひとつひとつがブツ切りの対談になるのではなくて、それぞれの学問分野から「演劇」や「演じる」ということを軸にして考えていきたいんです。ヨーロッパの公共劇場だと、哲学者を呼んだトークショーなどがよく行なわれています。そういったことが劇場の役割として認知されている。しかし、日本の公共ホールではそういうことをほとんどやりません。ウチ(こまばアゴラ劇場)の場合は規模が小さいので、現代風にそんなプロジェクトをウェブ上で、まず始めることにしました。

山極 僕も総長になってから、なるべく早いうちにいろんな方々との語らいをやりたいと思っていたんです。大学のサイトでアップして、英語版も載せて世界で発信するという。それを京都発でやりたいと考えているんですよ。

平田 たとえば、「総長カフェ」とか。

山極 そういうこともやりたいんですけど、私がやりたくても、みんなの賛成がなければできないので(笑)。

平田 山極先生とは、これまでもいろんな場所でお話してきて、重複する話題もあると思いますが、今日はイチから聞かせてください。いきなり対談テーマの核心となりますが、ゴリラが「父親」という役割を演じているという話についてお聞かせ願います。もちろん、霊長類研究全般の話もお伺いしたいと思っていますが、まずはゴリラから。ゴリラは父親になると別の行動をとるといいます。これを「演じる」とか「演技」と言っていいでしょうか。

山極 まず、サルとゴリラの違いを最初にお話しておきます……。

平田 あ、さすがに、核心に行き過ぎました。前提として一般の方にはサルと類人猿の違いが、まず分からないと思います。英語ではmonkyとapeで、はっきりと分類されていますが、これははっきり違うものだと考えていいのですよね?

山極 そうですね。特にゴリラはgreat apesって言いますけどね。apeにはテナガザルも含まれますが、great apesに入りません。テナガザルとオランウータン、ゴリラとチンパンジーの間には大きな遺伝的開きがある。

平田 一般的に言うとゴリラやチンパンジーと、オランウータンがgreat apesというわけですね。

山極 そうです。それを「ヒト科」というわけですね。ゲノムの構造においては2%以下の違いしかない。それ以外のサルにはそこから3%以上の違いがある。

平田 ヒトと類人猿の違いのほうが、類人猿とサルの距離より近いと聞きました。

山極 その通りです。単純に外観で比べるとそれがよく見えてこないわけです。体毛がなくて、直立二足歩行をしている人間は、明らかにほかのサルや類人猿とは違って見えますから。でも、遺伝的に考えれば、ゴリラとヒトは同じくヒト科なんです。

平田 ニホンザルとか、私たちが身近に接しているサルとは違うわけですね。では、先ほどの、サルとゴリラの違いについてお願いします。

山極 はい。まず、サルは、相手がどう自分を見ているかというところまで認識しないんです。つまり相手がどう反応するかによって自分のやり方は変わるかもしれない。しかし、相手が自分をどう見ているかまでは、考えが及ばない。でもゴリラは、それが及ぶんです。相手がどういうふうに自分を見ているか。自分に何を期待しているか。それを考え行動を修正するわけです。

平田 それはどういったことで分かるのでしょうか?

山極 相手が何を期待しているかということが頭に浮かぶとしたら、相手の気持ちを先回りして行動できるはずですが、サルにはそれができない。相手の行動を引き出してやろうということができないんです。

平田 具体的には、どういうことでしょう?

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山極 戦う相手がたとえば、誰かに助けを求めるという可能性を最初に考えていれば、先手を制して、先に第三者をつぶしておくということができるじゃないですか。チンパンジーにはそれができるけど、サルはできない。

平田 そういう先回りができるのはゴリラとチンパンジーくらいですか?

山極 そうですね。類人猿じゃないとできません。お母さんと子どものサルがいるとしますね。子どものサルが、お母さんは以前から見慣れているヘビを見たとします。母親ザルは子どもがヘビを怖いと思っていることが分からないから、ヘビに近づこうとする。お母さんは、ヘビをよく知っているから平気です。ヘビを知らない子どもが驚いて「うわっ」となった瞬間に、やっと子どもを助けるわけです。つまり、自分が持っている知識を子どもは知らないことをイメージできていないから、事前に助けることができない。

平田 ゴリラはそれができるわけですね。オランウータンもできるし、チンパンジーもできる。

山極 だけどサルにはできない。川に落ちてから助けることはできます。「ギャーッ」と泣き叫ぶ状態を見てから助けにいくことはしますが。

平田 ほかに、類人猿にはあって、サルにはない振る舞いがありますか?

山極 たとえばサルはめったにエサを分けません。類人猿は弱いほうがエサの分配を要求してくれば、それを分けることがある。強いほうが抑制するわけです。それはやはり相手が何を望んでいて、その望むことを叶えてやれば、こういうことができるというある程度の見通しがあるからこそできる行動ですよね。

平田 ニホンザルの場合には、エサを前にするとボスザルでも子ザルとエサを取り合っちゃうわけですよね。

山極 お母さんザルも子どものエサをとってしまいますからね。

平田 では、弱いほうは余りをもらう?

山極 ほかの場所に行って、強いサルにじゃまされないようにして食べるんです。サルは肉食ではないので、自然のどこにでもある植物を食べます。だから決して負けたほうが飢え死にするわけではありません。このルールはみんなが広く分散して食べるように作られているんです。

メスよりも子どもの信頼を得るほうがむずかしい

平田 前にお聞かせいただいて印象的だったのは、ゴリラは父親になると行動が変わるということでした。

山極 オスのゴリラが「私が父親です」と宣言してもなれるわけではない。メスから信頼を得て、子どもを預けられ、その子どもからまたもう一度、信頼できる存在として認められる。二重の関門をパスしなければ認められません。

平田 なるほど、子どもからも認められなければならない。でも、その、「認められる」とはどういうことですか。

山極 子どもが近くに寄ってきて、頼ってくるということですね。やがてゴリラのオスは大人になると背中が真っ白になる。シルバーバックです。

平田 では、子どもに認められないケースもあるんですか?

山極 子どもが怖がっちゃう場合がありますね。

平田 そうか。じゃあ、ゴリラのボスは、恐怖だけで支配することはできないんですね。

山極 私がカフジ山というところで研究をしていたとき、長年リーダーであったシルバーバックが死んでしまった。そうなるとメスたちは散り散りになってほかの集団に入ってしまうんですが、その集団は、ずっとオスなしで暮らしたんです。何度も外からオスが入って来ようとしたけれども、なかなか入ることができなかった。そのときにベッドを調べてみました。普通、大きなリーダーのオスがいると、メスも子どもも、そのオスのそばに、地上でベッドを作ることが多いわけですね。まあ、ある程度子どもは木の上でベッドを作ることがあるんですけど、オスがいなくなると、一斉に木の上にベッドを作り出した。新しいオスがやってきて、入ってきたとき、メスはすぐ地上に降りました。でも、子どもたちは地上に降りなかった。つまり、子どもは入ってきたオスを保護者として認めなかった。やがてそのオスは出て行きました。結局は、その群れの生まれで、数年間の単独生活を経て戻ってきたオスゴリラがそこのリーダーになりました。だから、メスの信頼を得るのはわりと簡単。子どもの信頼を得るほうがむずかしい。

平田 それは、民主的というか(笑)。

山極 人間社会でもありそうなことでしょ。お母さんが割り切っていたとしても、子どもがなかなか新しいお父さんに懐かない。

平田 それでは、いわゆるひとりゴリラ、ボスではないオスゴリラは、エサを分け与えたりするんですか?

山極 それはないです。

平田 父親になってから分け与えるという行動を始めるんですか?

山極 いや。食物の分配というのは、はっきりと人間と違うところがあって、自分から行って与えることはないんですよ。つまり、「ちょうだい」と子どもから言ってこないと、分け与えられない。ディスプレーなんだけど、消極的なディスプレーですね。

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平田 ボスになりたいから、人気を得るために配ったりはできない?

山極 できないですね。

平田 人気をとるため自分が積極的に何かをして、それによって関係を変えるということはできないわけですね。やっぱり、その役割になってから、他者の要望や要請に応じて行動するということでしょうか。

山極 類人猿を語るとき、ふたつの言葉を挙げておきたいんですけど。「自己主張」と「自己抑制」ですね。基本的には、「自己主張」というのは、類人猿に共通の文脈としぐさから成り立っているんです。

平田 チンパンジーもゴリラも一緒なんですか?

山極 一緒ですね。たとえば誇示ディスプレーと呼ばれる非常に有名なゴリラの行動に「ドラミング」があるでしょう。両手で交互に胸を叩くという行動です。非常によく似た行動がチンパンジーにもあるんです。ゴリラもチンパンジーも身体を横に振りながら「フート」という声を発することから始まる。そこからゴリラの場合には、二足で立ち上がって、両手で胸を叩いて、横向きに突進して、地面を思い切り叩いて、その途中で草を放り投げるなど、9つの動作から成り立っているわけです。チンパンジーは二足で立ち上がるんだけど、そこから枝を引きずったり、近くのモノを壊したり、板根の部分を叩いたり、蹴飛ばしたり、いろんな動作が入って、走り回るんです。そして最後に地面を叩いたりして終わる。基本的なプロセスは一緒なんだけど、間に入ってくる飾り物が違うというか。でも、シチュエーションも、まったく一緒。ただし、ゴリラの場合はオスが1頭しかいないから、観客はメスと子どもたちなんですよ。あるいは、近くにやってきた、ほかの集団のゴリラということになりますよね。チンパンジーがそういうディスプレーをするのは群れのなかのことなので、相手は複数のオスやメス。複数のオスたちに見せることは、自分が一番強いというディスプレーなんです。ゴリラの場合、ほかの集団との間の対等性を示すものだったり、移動を促すものだったり、チンパンジーとはディスプレーの意味合いが違ってくる。ただ、形式は一緒です。だから私はゴリラとチンパンジーの共通祖先もそれを持っていたと思います。それで、実は人間も同じディスプレーを持っている。

平田 人間が行なうディスプレーとは、なんでしょう?

山極 たとえば八つ当たり行動です。胸は叩かないけど、ドアを蹴るとか、地団太を踏むとか、壁を叩くとか。

平田 そういった行動もディスプレーですか?

山極 はい。それが形式化されたものもありますね。そのひとつが、歌舞伎ですよ。歌舞伎の「見得」は、ある意味におけるディスプレーでしょう。あとは、相撲の仕切りもそう。男らしい姿を、観客を意識して、わざわざ見せる。様式美として発達していったのではないかと。相撲は、ゴリラのディスプレーそのものですよ。まず、砂を撒く、シコを踏む。拍手を打つ。取り組みで見合っている形態も、ナックルウォーキングですよ。ゴリラのディスプレーを真似たとしか思えないですけど、相撲が誕生したときに、日本人はゴリラの存在を知りません。でも、同じような様式美が発達したのは、ゴリラと人間の社会的な共通項があるからだと思います。メスや子どもが期待して見る中で、男の美しさが結晶していったとき、似た形になるということですね。ということは、社会の根本にある何かが、ゴリラと人間の間で似ているということなのだと思うんです。

平田 ディスプレーは、ゴリラもチンパンジーもオスしかやらないのですか?

山極 オスしかやらない。

平田 しかも、ゴリラはボス(父親)しかやらない。

山極 胸叩きそのものは、メスも子どももやります。ただし、それだけこう、きっちり周囲を意識して、ディスプレーをするのはオスだけです。チンパンジーの場合はオスしかやらないですね。

平田 さらに、それを子どもは見て覚えているわけですか?

山極 ゴリラの場合、オスのディスプレーを見て、子どもたちはドラミングをマネするようになるわけです。

平田 子どものうちから、そうして様式を学ぶ。

山極 子どもはそういう遊びのなかで、ごっこ遊びをするんです。

平田 そういうディスプレーは、サルでは見られないのですか?

山極 サルではないですね。サルもたとえば、ニホンザルは交尾期になると、オスは木に登ってゆすり始める。周囲の注目を集める行動があります。ただ、決まりきった行動によって相手の注目をひきつけ、状況を変えようとするような、明らかに意図のあるディスプレーというのは少ないですね。

(つづく)