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更新日:2015.11.18

アゴラ劇場、青年団、徳間書店の特別共同企画となる本連載。第1回のゲストには霊長類学者で京都大学総長の山極寿一氏が登場。「ボスゴリラは父親の役割を演じる」という事実に演劇人として平田オリザは何を思うのか? あらゆる領域の学問から演劇を考察する対談企画。約2時間に及ぶクロストークをほぼノーカットで収録した。

類人猿の「記憶」と「不在」と「未来」

平田 もう一点お聞きしたかったのは、記憶の問題です。ゴリラやチンパンジーの記憶とは、どうなっているのでしょうか?

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山極寿一(やまぎわ・じゅいち)

1952年、東京生まれ。京都大学総長。京都大学理学部、同大学院理学研究科博士課程修了。理学博士。公益財団法人日本モンキーセンター・リサーチフェロー、京都大学霊長類研究所助手、同大学院理学研究科教授を経て、2014年10月に京都大学総長に就任。1978年よりアフリカ各地でゴリラの野外研究に携わり、類人猿の行動や生態をもとに初期人類の生活を復元し、人類に特有な社会特徴の由来を探っている。主な著書に『家族進化論』(東京大学出版会)、『オトコの進化論』(ちくま新書)、『「サル化」する人間社会』(集英社インターナショナル)などがある。

山極 NHKの番組の企画で、26年ぶりにゴリラの友だちに会いに行きました。昔そのヴィルンガ火山群で研究していた頃は、いくらでも会っていられたのですが、そのときは観光客としていったので1日1時間以内、しかも7メートルは離れて観察するという条件がつけられました。最初の日の1時間では思い出してくれませんでしたが、3日目の1時間で思い出してくれた。私が知っていたかつて6歳だったそのゴリラとは、8歳のときに別れました。それから26年後、つまり彼は38歳ですね。もうおじいさんなんです。それが2008年のこと。当時は僕も還暦目前。お互いに身体つきに変化があるわけです。ただ、私は26年後の彼を想定して会いに行くので、ある程度イメージしている。でも、彼からしたら突然声をかけられても分からないと思う。彼の名はタイタスといいます。

平田 26年前はどのように接していたんですか?

山極 ときには抱き合って眠り、ゴリラ語で話したりしましたね。でも26年後の再会では観光上の制約があり、短い時間で26年前の私を思い出してというほうが無理なんです。おそらく1日目に会ってから3日目までに、起こったことを頭のなかで反復していたんだと思います。それで、3日目に声を出して挨拶すると、返答した後どんどん顔が子どもっぽくなった。子どもの遊びをする。しばらくして我に返り、また私をにらむんだけど、その時はもうおじいさんの顔になっていました。おそらくゴリラの記憶がよみがえるというのはこういう現象なんだなと、身体ごと子どものころに戻ってしまうんでしょう。自分と相手の関係性を呼び覚ましたとき、頭だけでなく、身体ごと記憶がよみがえるという。

平田 人間社会でも似たようなことがありそうですね。

山極 同窓会などで、何十年も前のことがよみがえって、目の前のおじさんを○○ちゃんと呼んだりしてね(笑)。その頃のお互いの淀みない関係がよみがえってくる。そういう記憶の掘り起こしがゴリラにもあった。

平田 ところで、ゴリラのメスはどのようにして交尾の相手を選んでいるのでしょうか? これも短期的な記憶と、多少関係があると思うのですが。

山極 ゴリラにももちろん、好き嫌いがある。好き嫌いに関しても、オスのほうじゃ建前があるんです。メスのほうが正直。チンパンジーでも同じようなことが言えますね。オスの選び方にしても、決して強いオスというのが絶対条件ではないんです。自分の生理状態が変わってくるから、おしりがパンパンに腫れると、いろんなオスがやってくるわけですよ。すると、そのメスに接近権を持つのは強いオスのみですから、やはり強いオスには優先権がある。だけどそのオスのことが嫌いな場合には、身を隠すんです。で、遠くにいるオスと示し合わせて逃避行に出るんです。

平田 そこはすごく人間的なんですね(笑)。その程度の記憶や計画性はある。一方、ボノボはあまり選んでいないような気がしますが。

山極 ボノボで逃避行する例は聞いたことがないですね。メスがあまりオスを選ばないかもしれないし。だいたいボノボはオスよりもメスが強いでしょう。メスもわりと好き嫌いを前面に出さないような社会性を身につけているのかもしれないです。

平田 ゴリラが26年を経て山極さんを記憶していたように、では遠く離れたかつての仲間を思うということはあり得るのでしょうか?

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山極 ゴリラ社会では「不在」というものがすごく大きいんです。実は、人間と類人猿のあいだで一番大きな違いは、不在なんです。人間は不在という現象を当たり前のように認識できる。人間以外の霊長類の場合、不在とは、死を意味するわけです。一日いなかったら、その存在はいなくなったと思われる。だから少し遠くへ行って群れに帰ってきたら大仰に挨拶をして、存在をアピールします。元の関係の回復に努力します。チンパンジーは離合集散するんですが、彼らにとって挨拶はとても重要で抱き合ったり、毛づくろいをしたり、それまでの関係を修復しようと努力します。ゴリラの場合はそれがない。だからこそ、ずっと一緒にいることになるわけです。ゴリラのオスが集団を出ていくときは、徐々に、だんだんと不在の時間を長くする。そうするとついには戻って来られなくなる。若いオスは自分の父親であるオスから出て行けと追い出されてしまいます。

平田 人間社会からするとなんて冷たいんだと思ってしまいますね。

山極 オスには厳しい現実です。でもメスのゴリラは戻れるんです。そういう例を実際に見たことがあります。もっと悲惨なのはチンパンジーです。オスはいったん出て行ったら群れの仲間からはずされてしまいます。仮に戻ったとしたらリンチされ、死に至る。

平田 それはどういうことなんでしょうか。忘れられてしまうということですか?

山極 それが分からないんですけど、関係性とは持続的なもので、日々の接触によって担保されているものなのでしょうね。それが切れてしまうと、関係性そのものがなくなってしまう。

平田 そういうコミュニケーションのあり方が興味深いですね。ゴリラの場合は限られたコミュニケーションでいい。人間の場合は、遠くに離れたり集まったり、面の広がりがある。先ほどの記憶という時間的、意識的な広がりもありますよね。もうひとつお伺いしたかったのは未来へのイメージなんです。人間はそれを想像しますが、類人猿はどうなんでしょう。

山極 類人猿に未来への想像力はないでしょうね。短期的にはあるかもしれません。でも、自分は将来こうなる、相手はどうなる、ということは考えないでしょう。たとえば、手を切断される、足が動かなくなる。その状態に対して、不幸な気持ちにならないんですね。本来ならば五体満足で、これまでにできたことを自分ができない状況。それに対し苛立ったり、悲観したりしません。それがね、人間と違う。人間なら「これからいったいどうなっちゃうんだろう」と思いますよね。不安と恐怖。それがないんです。自分の運命を淡々と受け止めていくことをする。それは未来を想像しないからでしょうね。過去は思い出すでしょう。ただそれを参照し、評価につなげない。ゴリラもチンパンジーもきっと自分を評価しないんだと思いますよ。落ち込むことはあると思うけど、そのときに過去の自分と今の自分を比較しているとは思いにくい。

平田 未来への具体的な想像力はなくても、感情はありますよね。サルにも、類人猿にも。もちろん、トカゲでもヘビでも感情はあると思いますけど。では、その感情というものはサルや類人猿と人間でどう違うのか?

山極 共感(エンパシー)という言葉で考えてみると、サルにもエンパシーはあります。そのエンパシーは何かというと、相手の気持ちが分かるということです。かつて、サルの脳に電極を打ち込んで行なった実験ですから、当然今はできないんですが、1990年代の最初にイタリアのリゾラッティたちの実験で分かったのは、仲間のサルが何か手作業をしていると、特有の脳の部分が発火するんですね。それは脳がエンパシーを感じているということで、自分もその作業をやっている気分になるわけです。ただし、そこから先が問題です。相手の気持ちになったうえで、さらに助けようとするか。相手が苦しんでいる、困っていると認識して、手を差し伸べることがサルにはできない。相手が直面している問題を自分の解決とつなげない。それは、相手と自分の知識の違いが判らないからです。人間の子どもも、実は4歳までは気づかないんです。

平田 なるほど、感情に関して単純な共感はできるけれども、未来への具体的な想像力がないから、相手の気持ちに立って助けることはできない。それは、人間も社会に出て、他者とのコミュニケーションの中で身につけていくものなのでしょうね。家族はみんな、分かってくれるから。ここからは、少し霊長類研究を離れて、さらに私の個人的な関心に沿った質問をさせてください。先ほど出てきた脳に電極を刺すようなことは、いつごろからできなくなったのですか?

山極 90年代の終わりくらいでしょうか。今はPETによって脳表面の温度差を測ることによって部位を特定しています。脳の内部、微細なことは分からないけれど。

平田 オーストラリアではロブスターを生きたまま茹でてはいけない法律がありますよね。かわいそうだと。

山極 神経系の問題として考えてみると、海老やロブスターはわれわれと同じような神経系で痛みを感じることが証明されている。

平田 ないとは思いますが、人類で、ミッシングリンクのような種が発見されたらどうすべきでしょうか。

山極 それは当然生かしておくべきでしょう。東ゴリラと西ゴリラは175万年くらい前に分岐したといわれています。ホモ・ハビルスが登場したのは200万年くらい前ですから、もし、ホモ・エレクトスやわれわれ現代人ホモ・サピエンスが分岐した後も、ホモ・ハビリスが生き残っていたとしたら、種は違いますけど、東ゴリラと西ゴリラのような形で生き残っていることになる。ホモといわれるものは同じ属ですから、同属で別種が生き残っていることになります。

私たちはロボットに「葛藤」を読み取れるか

平田 石黒先生は、自分とロボットの区別があまりついていないんですけど(笑)、手塚治虫のアニメのように、ロボットに人権と同じような権利を持たせる時代になると思いますか?

山極 うーん。どうでしょうね。情報を操るエージェントとして人間を考えるんだとしたら、ロボットは十分権利を得るに匹敵する存在になり得るでしょう。ただ感情の問題がある。ロボットが感情を持つようになるか、ですよね。

平田 感情というのは、ここまで見てきたように関係性のなかでできてくるところもありますよね。僕は高校でアンドロイド演劇を見せて、そのあとに高校生とディスカッションするといった授業をしています。なかなか、非常にいい議論になるんです。まさにロボットが、あたかも心があるかのように感じさせるのがロボット演劇やアンドロイド演劇なんですけど、心は実体ではなくて、他者に心を感じるから自分にも心があるような気になっているのじゃないか、ということがありますね。

山極 だとすると、ロボットにいずれ、心を見る日が来ると。

平田 そこがこれから研究をするうえで重要なところなんです。結局は法律問題になってくるけれど、ロボットが家庭で普及していけば、ある人にとってはとても大事なロボットで、ある人にとってはただのモノという、ペットと同じようなことが起きるでしょう。動物愛護法なんて、100年も前にはどこの国にもなかった。「脳死」の問題も、人間の「死」を法律で規定せざるを得なくなった結果です。多分、ロボットに対してもなんらかの法整備が進むのではないかと。

山極 ひとつ質問していいですか? 私たちは他人に、あるいは動物に「葛藤」というものを読み取りますよね。それは自己と他者から定義された自己との葛藤です。私たちが演劇を観るときに一番大きなテーマになる。演劇はまさにそれを見せてくれます。Aという人はBという人に影響されて何かをしようとするけど、そこには目に見えない葛藤がある。そのプロセスをアプリオリに感じさせられるから演劇に感動するんだけども、その部分をロボットでやったときに出てくるだろうか?

平田 まさに葛藤は演劇のテーマですね。「この人、悩んでるな」とか「この状況じゃ俺も迷うな」というところで共感してもらうわけです。ただ、それは、ロボットでも見せられる。そういうシーンを作って石黒さんに見せたんです。そしたら、おそらく高度なコンピュータ、人工知能の時代になると、こういったことは普通に起こるだろうと言うのです。いまのところ、こういう状態を何で見せるかというと、演出家は「間」で見せるわけです。ある大きな問題に直面すると発話までにちょっと時間がかかるし、「うんうん」と反射的に答えている部分と、一瞬躊躇して発話する場合と、周りを見回してから発話する場合とかを丁寧に創ることで、観客に「この人考えているな」と思わせることができるわけです。ほとんどの観客は、この「演出」によって、ロボットが自発的に考えているように見てしまう。

山極 なるほどね。

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平田 で、フリーズする状態も作れる。実際に石黒先生に聞くと、コンピュータも普段のPCと同じだから、たくさんの異なるコマンドを入力されたらフリーズします。人間が、呆然としたり、引きこもったりするのと同じように見えてしまう。

山極 僕が重要だと思ったのは意外性ということですね。道端にいて、向こうからでっかいトラックが走ってくる。それがけっこう近くを走ったとしても、恐怖は感じませんよね。でも向こうから同じ大きさのゾウが走ってくる。これには恐怖を感じますよね。ゾウは何をするか分からないから。ここでも極端な話、ひょっとしたら平田さんが僕の首を絞めるかもしれない。そういう一抹の不安を抱きながら話をしている。じゃあ相手が機械であれば、どうか。それは決して、意外なことは起こらないだろうという安心感がある。生き物の場合、イヌでもネコでも、決して襲ってくることはないだろうと思って接しているけど、どこかでもしかしたら飛びかかってくるかもしれない意外性が生き物にはある気がしますね。

平田 『生物と無生物のあいだ』で福岡伸一さんが書いていらっしゃる「ランダム」という事柄ですね。たしかに、ロボット演劇で世界中をまわっていると、「ロボット演劇ではアドリブができないでしょう」とよく言われるんです。でも石黒先生はできると断言する。ランダムをプログラミングしておけばいいと言うのです。

山極 平田さんはすでに解決していると思うけど、出来事というのは繰り返せないでしょう。ある言葉を発しても、言い方やトーンや長さを考えると決して同じように言葉を繰り返すことはできない。

平田 そうなんです。先ほどのように「アドリブできないでしょう」というのは演劇畑の人が多くて。アドリブがいいことであるとして言っているわけですね。でも、もしも、世界最高の演技というものがあったらアドリブする必要がないわけです。

山極 うんうん。それをいつもやればいいわけですからね。

平田 将棋で言う「最強の一手」です。突き詰めると、人間がロボットやコンピュータにかなわない部分があったとしたら、だいたいネガティブなことです。適当に忘れるとか、嘘をつくとか。そういうことがロボットは苦手ですよね。ただ、そんなことを人間が威張ってどうすんだって思う(笑)。でも、僕は霊長類研究の方々と話すときも近いことを感じます。霊長類のほうがピュアで人間はダメってよく言うでしょ(笑)。

山極 分かる気がするけどね。言葉というものが人間に何をもたらしたか。それは実はロボット的なるものです。腐らないもの。言葉や文字は腐らない。言葉の発見は、繰り返し使える腐らないツールだから、つまり約束なども証文として成立する。人間の社会に言葉があることで可視化することができた。文字や言葉によって、未来をイメージすることが、人間はできるようになった。

平田 だから、そこは、価値判断はいったん留保した方がいいかと思っています。演じるということ、嘘をつくということをマイナスのイメージで捉えると話が先に進まない。文字や言葉という記録も、演劇や芸能も同じ起源を持っていると思うんですね。かつてウチの村でこんなに大きなマンモスを獲ったということを伝えたいと考えるわけですよね、人は。それを踊りや音楽にしていったと私は考えている。そしてそれは、人間を人間たらしめている大きな要素になっている。

山極 それにしても不思議なのは、演劇でもあれだけ結末の分かったものを人は何度でも観ようとしますよね。

平田 それは演劇において重要なことなんです。大学の授業などでは「結末が分かっていても何度も観に行きたくなるのがいい戯曲だ」と話すんです。

山極 なるほど。

平田 『ロミオとジュリエット』の結末は誰もが知っているでしょう。ふたりは死んでしまうんですよ。今年のロミオは大丈夫かなあなんて思って観に行く人なんて誰もいない(笑)。で、400年も人類はあの芝居を観続けている。最後に話をゴリラに戻しますが、山極さん個人として、ゴリラとは人間と同じようにお付き合いしていると思いますけど、たとえばサルとエイプという区分けはご自身にあるんですか?

山極 個人的に付き合いもあるんだけど、やはりどこか線を引かなくてはならない。人間同士であれば、どんなことがあっても殺してはいけないけど、サルがどうしても人間の生命を脅かすことがあれば、相手の生命を奪うことは致し方ないときがあると思います。だけど、商売のためだとか、毛皮を得るためだとか、そういう意味で生命を奪うのは絶対にやってはいけないと思う。

平田 僕は以前戯曲に書いたことがあるんですけど、新薬の開発で動物が使われる現実がありますよね。

山極 これは本当に悩ましいところです。なるべくならば、生きた動物ではなくて、代替できるようなものをつくり、それで実験すべきですけど。目薬の開発のためにウサギなどを苦しめる。それは命の浪費だと思う。

平田 どこで線を引くかが難しい問題って、芝居の題材になりやすいんです(笑)。今日の対談でゴリラが役割を演じる行為やコミュニケーションについてのお話をお伺いしました。芝居作りにも大きなヒントをいただいたように思います。ありがとうございました。

山極 いえいえ。これから対談を続けていくわけですよね。ある程度プランは見通しているんですか?

平田 第3回ゲストまでは見通しがあるんですけど、それ以降はまだプランがありません。ゴリラと同じで、未来への想像力がまだ追いついてない(笑)。

構成/田中大介(徳間書店)